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「はみでる考」

  藤原 辰史(歴史学者)

 

日本語使用圏の日常生活の中で、「はみでる」または「はみだす」という動詞は、あまり良い印象の言葉として用いられない。国語の試験の問題で、解答欄の決められた字数から解答がはみでてしまうことは、内容がどれほどよくても、点数を失うことを意味する。自動車を運転しているとき、狭い道の幅から車がはみでることは、脱輪であり、最悪の場合、天国ないしは地獄に召されることを意味する。満員電車のドアから人間がはみでているとき、駅員にとってそれは押し込む対象である。シャツがズボンからはみでていると、大人からだらしないと注意される。このような事例から分かるように、「はみでる」とは、あるものが、本来は収まるべきところに収まっていないことを意味する。

 周知のとおり、「はみでる」や「はみだす」という言葉を構成する「はむ」という動詞は、日本語で「食む」または「喰む」であり、英語ではeatにあたる。

たとえば、牛が草を喰む、という文章を見てみよう。これは、牛の口の長さよりも長い草を加えている様子を描写している。つまり、「食む」または「喰む」は、口の両端よりも大きなサイズの食べものに食らいつくことであり、そこから、「食み出る」または「喰み出る」という意味が生じたのだが、私はここに食べるという行為の原型のようなものが潜んでいるように感じている。

 近代化が私たちにもたらしたものには色々あるが、あらゆるものがはみださないようにする、ということも、そのひとつであろう。決められたサイズからはみでた商品は汎用性がないうえに梱包しにくいので、工業製品として流通しにくい。たとえば、近代以降、日本では、脚気を防ぐために米糠で大根を発酵させた漬物であるたくわんが大量生産されるようになり、その多くは軍隊の糧食用に納入されるのだが、たくわん用の大根は、漬け樽にきちんと格納できるように品種改良がなされた。大量に生産し、大量に流通し、大量に消費されるためには、商品が規格からはみでないことが前提である。

 たしかに私の頭もすっかり近代化されていて、本棚に収納しにくい本や、駐車場の白いラインからはみでている車にイライラする。けれども、食べものに考える対象を絞ってみると、自分の食べるものの生前の姿が自分のサイズよりも小さいことの方がむしろ少数派であろう。そもそも太古の人たちのマンモス狩りや、いまも続く捕鯨は言うまでもないが、一本のキュウリもナスもトウモロコシもそうである。人間の口なんで小さいものだと感じずにはいられない。

 ところが現在は人間の口にお行儀よく収まるどころか、歯でそれほど噛まなくても、胃腸に負担をかけず飲み込むことのできる食品が世界を席巻している。私もそのような、近代人の性質を「わきまえた」食べものを好んで食べてきた。牛も畜舎で草以外にデントコーンなどの濃厚飼料を食べるようになった。だが、ふと考える。

もしももっと食べものを私たちや牛たちが「食む」ようになれば、食べものが人や牛の口や食道や胃腸の野生を取り戻せば、私たちの思考も、私たちの社会ももっと自由に、肩の力が抜けたものになるのではないか。

 そう思って、私の口よりも大きなトマトを塩をつけてかじってみた。噴き出た汁がワイルドに私の心を駆り立てた。と、思った瞬間、汚れた服がすぐに心配になった。近代人をやめるのはなかなか難しい。